野間先生の本はたくさん持っている。『野間先生』と僕が言うからといって僕が先生の弟子であるわけではない。直接に存じ上げてはいないが、一般に尊敬している著者を先生と親しみをこめて呼ぶことがある。僕が本の著者を『先生』付けで呼ぶのはおそらく1%もない。
さて、今回の記事はほとんどその本の引き写しであるが僕が興味を持ち、なるほどと膝を打った内容であるので、そこには僕の志向性が表れている。人は過去の知識の積み重ねの中から、取り出し、練り合わせ、組み立てて、そしてあるときには自分の考えを盛り合わせて表現することがある。今回のように引き写しであろうとその原典を特定していれば、いざとなればその論旨をトレースして確認できるので便利かなと思う。
曰く、
ある老練編集者の方に『60歳からの韓国語』という本の執筆を依頼されて、驚いたことがある。思わず、『40歳からではなくてですか』と聞き返したが、後に不明を恥じた。超高齢化社会とは、超高齢学習者社会なのである。あと2年で僕も前期高齢韓国語学習者になる。(笑)
学習書にあっては、本の形式もまた、内容である。入門書を選ぶということ、それが人生を決めるという。そのとき間違った入門書を選んでも怯むことはない。その蹉跌は、青春の蹉跌でも、人生の蹉跌でもない。入門書による蹉跌であって、韓国語による蹉跌ではない。韓国語の懐はそんなに狭くない。改めて歩み寄れば、きっと温かく迎えてくれる。韓国語を学び、人生の豊かさを歓ぶ、多くの人々の人生がそれを証明している。という先生の考え方は韓国語自身の懐より大きく豊かであると思った。先生自身も美術家として活動されていた30歳のときに東京外大の朝鮮語学科に入学し朝鮮語の世界に飛び込んだ経歴があり、そのとき、きっと温かく迎え入れてくれ、人生の豊かさを歓んだ幸運な人だったのだろう。
わずか一音節、一単語の間投詞 『네?』(日本語の『え?』)が、中級、上級と進むに従って、イントネーションのヴァリエーションを得て、驚きを表したり、疑念を表したり、非難を表したりと、実は縦横無尽に活躍する。それが『話す』ということであるという。
話すためには、書かれたことばではあまり用いられない、話されたことば特有の『談話を構成する表現』を意識的に学ばなければならないという。例として、
근데(ところで) 있잖아요 (あのですね)
저 (あの) 저기요(あの。すみません)
저기(あのう) 혹시(もしかして。あのう) 죄송한데요(すみませんが)
네? (ええ?) 예?(ええ?)
정말이요?(ほんとですか) 그래요?(そうですか) 맞아요(そうですね) 글쎄 말이에요(そうなんですよ)
좀(ちょっと) 뭐(なんか)
그래서요? (それで?) 그런데요?(そうですが?)
그러니까(だから) 저(あの) 어(えーっと)
뭐하죠 (なんですよね) 좀 그래서요(ちょっとあれなものですから)
これらは話と話をなめらかに繋いでいくもので、こうした表現を知らないと、とても間の抜けたやりとりになり、事実上、自然な会話が成立しなくなってしまう。逆に例えばこちらから、혹시(ひょっとして)などと水を向けただけで、相手が『そうなんですよ、実はね』などと笑顔で話し出してくれるかもしれないという。
と、こういった内容で『Samさんが選ぶ良書100選』にランクインしています。(笑)
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